自宅の庭に咲いたバラの写真と、水彩画と色鉛筆画の作品

のぞみちゃんの薔薇

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のぞみちゃんの薔薇

八重樫 克羅

そっとなまえを呼んでみる
眼をあけてくれるか
ちいさい口をひらいてくれるか
白い頬にうすももいろの血は
うっすらとかよってくるか

記憶が墜ちてゆく暗い淵から
ちいさな手をつかんで
かろうじてわたしは抱きあげた
煤煙によごれた蒼ざめた顔
かわいいふたつの鼻孔をとおって
ちいさなふたつの肺を満たしたのは
おとなたちの絶望と悔恨にまみれた澱み
そして血と汗に汚れた兵隊服や
垢じみたモンペと吐瀉物の匂い
はげしい鉄の歯ぎしりのなかで
闇の底にうごめくひとびとの呻き声は
あたりに満ちていたが
はなびらのようなふたつの耳に
たしかに聞こえていたのは
おばあちゃんとおかあさんの
しきりに呼びかける声
しかし それもしだいに遠のいて

南の戦地から帰還した父が待つ故国へ
遠い流亡の旅にまず祖母が死に ついで母が死に
骨箱二つを抱えた四歳の長旅
やっと富士山が見えるあたりで少女も息絶えた
品川駅で出迎えた父と伯父の掌に
少女のいのちの温もりはまだあったという
敗亡の満州から故国を目ざした百余万の民の
夥しい死と生のはげしい坩堝のなかで
揉みしだかれた小さな少女のちっぽけないのち
見届けたひとはもういないから
その死は想い描くことしかできない
薔薇のなまえの由来を語ることしかできない
ちいさな死を悼んで作りだした
あたらしい蔓薔薇に
伯父さんが少女のなまえをつけた
のぞみという少女の名・・・
たくましく蔓を這わせて
ちいさな花をいっぱいにつける
白いはなびらの縁を染めるのは薄いももいろ

ことし
にっぽんの積乱雲の季節の片すみに
のぞみちゃんの薔薇が咲いた
戦争の記憶を忘却の淵へ落としつづける日々に
けなげないのちの花が咲いた

そっとなまえを呼んでみる
花は微笑んでくれるか
呼びかければ
花びらに
うすももいろの血は
うっすらとかよってくるか

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